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1. フェンスの向こう側の風景

 英語で「蚊帳のそと」という意味を持つこの個展には、その名前のとおり、ネット(網の目)が複数の作品のなかに登場している。だがそれは網の目が細かいものでなく、視界が遮られるようなものではない。ネットというよりも、むしろフェンスと呼ぶのがふさわしいものなのだ。

 そのため、これに仕切られている空間を蚊たちは自由に行き来することができる。ただ、多くの人間たちにとっては、このフェンスはなかなか越えることが困難な代物なのだ。つまり、このフェンスは、人間の行き来を遮断する「蚊帳」であるということができるだろう。

 フェンスの先に広がっている「あちら側」には建物がたっていて、そこからは火と煙が立ちのぼっている。フェンスは視野や空気を遮ることなく、「こちら側」から「あちら側」の状況を知ることができる。その場にいたら、焦げた匂いや炎の熱すらも「あちら側」と共有できるのではないか、と思えるほどだ。

 ただフェンスの存在だけが、「こちら側」と「あちら側」を2つの領域に分断している。

2. 隔てられる2つの領域

 アート作品がふたつの領域のつなぎ目を描くとき、そこには中間領域のようなものが発生することがある。普段は意識されない、意味が未規定な領域を可視化することも、アート(技術)のひとつだということもできるだろう。だが、この個展の作品たちで印象的なのは、2つの隔たれた領域が中間領域を持つことなく直接的に隔てられているという点である。

 ここでのフェンスは、概念上にしか存在しえない「線」として、2つの領域を隔てるものなのだ。それはいうなれば、人間社会における「法」のようなものに近い。

 実際にギャラリーで本人に聴いたことなのだが、この作家は日本でアメリカ軍基地の近くに住んでいた経験があるという。もしかしたら、この境界線の感覚や「あちら側」の風景は、その経験も反映しているのかもしれないというのは考えすぎだろうか。

 フェンスの「あちら側」は、ヤシの木が生えてまるで南国のようでもある。その風景は、日本で暮らす多くの人びとが持っているハワイやグアムのイメージにも近いように思える。それもまた、「アメリカ」のイメージと響き合うところがあるのかもしれない。

3. 私たちにとってのフェンスや「あちら側」とは?

 じっさいにフェンスは見えなくても、私たちは意識的・無意識的に、目の前にあるなにかしらの境界線を越えでないようにしながら、日々の暮らしを営んでいる。その一線をこえてしまったら、現在の暮らしやその先の未来までが危ういものになってしまうかもしれないから。少なくとも、そのように刷り込まれ、警告されているのだ。

 しかし、そのフェンスにぶつかることが、私たちが暮らす「こちら側」の風景がどのようにして成り立っているか、そのことを知るきっかけにもなるのではないだろうか。そこに何か答えのようなものがあるわけではない。だが、私たちが享受している生活がどんな条件によって成りたつのかを知ることは、それほど無意味のようには思われない。

 この個展のなかには、フェンスの一部が少しほころびているような作品もあった。そのほころびにどのようなイマージュを重ねるかは個人の自由である。システムのバグや老朽化のようにもみえるし、過去の様々な試行錯誤の痕跡にもみえる。また、ベンヤミンの「神的暴力」と「神話的暴力」の議論を重ねたりもできるだろう。

 フェンスの「あちら側」には、今も「こちら側」とそれほど変わらない風が吹いている。

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Out of the mosquito net
Hiraparr Wilson
Apr 27 – May 17 2018
Speedy Grandma